インドに魅せられた人 Vol.1
鹿子木謙吉(かのこぎ・けんきち)さん (前編)


鹿子木謙吉さん

Discover India Club(DIC)副会長の鹿子木謙吉さんにお話をうかがいました。鹿子木さんは、DICの生みの親といっても過言ではありません。日印協会に勤務されてから、日本とインドの往復50回、その間に経験されたことや日印交流にかける思い、また数奇な出会いなどご紹介します。

プロフィール

1936年6月18日 大阪に生まれる  6歳で神奈川県藤沢市辻堂に移る
1955年 神奈川県立湘南高校卒業 1961年 中央大学第二法学部(夜間)卒業
1961年 日通合同トラック(株)入社 1968年 同 退社
1968-1971年 通訳養成所で英語・タイプを学ぶ
1971年 (財)日印協会 入所
1977年 同 理事就任
1995年 同 常務理事就任
2001年 同事務局を退く 非常勤理事として引き続き運営に関わる
退職後、ボランティアとして「日印交流を盛り上げる会」で「ナマステ・インディア」を応援、日印交流では、「タゴール生誕150年祭り」などのイベントに関わる
2013年7月13日 ラビンダー・マリク氏を会長に迎え1978年に創設したDiscover India Clubを再生

※1978年にDiscover India Club(日印協会の個人会員の懇親と、“インドに学ぶ”をモットーにインドの文化、歴史を学ぶサークル)を立ち上げ、初代会長に高橋秀夫氏、二代目会長に大野昌直氏、事務局長に田村達馬氏を迎え、2009年まで活動した

 

鹿子木さんと三角佐一郎(日印協会元専務理事)さんは長年、日印協会で一緒に仕事をされた同志ですが、今年(2015年)3月下旬、パドマ・ブーシャン(Padma Bhushan)勲章の授賞式に出席する三角氏に同行し、インドを訪問されました。

※パドマ・ブーシャン勲賞は、インドに貢献した人にインド共和国から贈られる栄誉ある賞。今年は、日印友好70年にわたる三角氏の貢献に対し贈られ、日本ではこれまで桜内義雄氏(元日印協会会長)、森喜朗(現会長)氏など5人が受賞している。

授賞のきっかけは、昨年(2014年)の「三角佐一郎氏の白寿を祝う会」会場で、各日印交流関係者が、三角氏の日印交流への貢献を改めて知ったことだったのです。その「白寿を祝う会」の開催を呼びかけたのが鹿子木さんでした。

三角佐一郎さんは、日印協会(1903年・明治36年創立)に1938年(昭和13年)から勤務。第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後の波乱万丈の時期には、日本政府の要請に応じ前線へ向かい、何度も命拾いをした経験を持つ方です。終戦後に、日印協会に残されたものが英文タイプライターひとつという状況。連合国側から活動の停止を言い渡された際は、日印経済協会を立ち上げたりしました。1952年(昭和27年)に、日印平和条約が締結され、協会の活動が再開され、音楽や舞踊、絵画を通じた日印文化交流を行い日印協会の危機を乗り越えました。インディラ・ガンジー首相の協力でインドへの研修旅行(鹿子木さんも同行)を10回以上実施。1978年にバジパイインド外相から印日友好の業績に対し表彰を受け、国内では1990年に勲五等瑞宝章を受賞、園遊会では天皇陛下が「日印協会の三角さんでしたね」「難しいお仕事でしょうが、しっかりやってください」と話されたことが忘れられない思い出だそうです。これまでの日印の政財界・文化関係者など多くの人たちとの出会いの中で、三角さんが感じたことは、「大統領から物乞いの人まで何万人もの人に会いましたが、嫌なインド人には一人も出会うことがなかった」ということでした。(日印協会創立100周年記念発行記念誌より)

インタビュー

--ご高齢の三角さんに付き添われて、パドマ・ブーシャン賞の授賞式に臨まれましたが、いろいろ大変だったと思います。お疲れ様でした。

今回は「どんなことがあっても(三角さんを)無事に日本に連れて帰らなきゃ」と思ってましたね。僕は結婚式の時も三角さんに仲人やってもらっているから、ご恩に報いるためにも個人的にも絶対連れて帰ると思ってました。インドへは、三角さんの義理の娘洋子さんもご一緒でした。デリー空港に着くと、インド政府関係者(儀典官)に出迎えられて、用意された車でアショカ・ホテルに入り、ひとまず一安心しました。

三角さんがホテルで人工透析を受けている間に、先ず日本大使館に出向き、医務官(参事官)に会い、「何かあったら、よろしくお願いします」と挨拶に行きましたが、結果オーライで、何もなかった(笑) 次の日(授賞式の日)からは、チャウラさん(内務省儀典官)がホテルへの迎えと見送りまで滞在中ずっとついていてくれました。実は、チャウラさんは、彼の先生(ヴァルマ博士)がデリーの印日協会の会長だったとき、事務局長、後にネルー大学日本語学科のトップで卒業した方で、当時からヴァルマさんを通して知り合いだったんです、ヴァルマさんとは昔、日本の「奥の細道」やインドのヒマチャル地方を一緒に回ったんですが、そのご縁が今回につながったんですよ。チャウラさんは、インド外務省からデリー滞在中の三角さんのお世話をするようにと、特別の委嘱を受けていたんです。いろんなところで、いろんな人と繋がってるなあと思いますね・・・。

透析担当医のマハパトラさんもずっと付いていてくれましたから安心でした。日本の病院では人工透析(4時間かかる)を週に2回受けるように言われていたんだけれども、インドのお医者さんは「週に3回しなくちゃだめだ」と主張しました。でも3回やると賞を受けた直後に透析しなきゃならいし、帰国時も透析をやってすぐ飛行機に乗るというスケジュールになるので、「日本では2回と言われた」と言ったけど、「いや3回受けるほうがいい」と強く奨められて、結果、我々が折れて、インドの主張を受け入れました。

--授賞式はスムーズにいきましたか?

午前11時過ぎにインド大統領官邸に入りましたけど、チャウラさんと透析担当医のマハパトラさんにずっと付き添ってもらったことは本当に安心でした。式典会場でもリラックスでき、彼らの好意に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

式典は、ムカジー大統領が着席して、国歌演奏、パドマ各賞(パドマ・ヴィブシャン、パドマ・ブーシャン、パドマ・シュリの順に)が贈られました。ビルゲイツ夫妻は欠席でしたけど、著名な科学者や医師、舞踊家、などが次々に勲章を贈られました。三角さんは、ブーシャン賞では名前を呼ばれた最後の人でしたが、ほかの受賞者が壇上まで上ってうやうやしく受賞する一方で、三角さんには大統領が壇上から降りてきて賞状を渡され、胸に勲章を付け、三角さんの目の前で手を合わせて祝福してくれました。華やかな式典も40分後に終わりました。レセプション会場に移動し、インドの飲み物やお菓子などをいただき、歓談後、大統領と首相を見送り官邸を後にしました。懇親会でお目にかかった八木毅駐印日本大使に報告をすると、とても喜び、三角さんの体調をとても心配されました。官邸で待機していた大型救急車とチャウラさんの車に分乗して病院へ急ぎました。

三角佐一郎氏 パドマ授賞式
ムカジー大統領から胸に勲章をつけてもらう三角氏(2015.3.30)
式典の様子はこちらのサイトをご覧ください

--三角さんのご体調はいかがでしたか?

透析の時、三角さんは最初「洋子、洋子」と同行した娘さんの名前を呼んでおられたけれども、インド首相が委嘱したという断れない取材が30~40分もあったり、授賞式の疲れも出たんでしょう、うとうとと眠られました。帰国の4月3日(金)9時から1時頃まで透析をして、また来た時のように皆さんに見送られて飛行機に乗り込みました。

帰ってきて、すぐに西荻窪のクリニックに行くと、先生が「立派な処置をしてある」と言われた。VIP用の病院に連れて行かれたんだけれども、設備も何もかも凄い病院だった。インドの看護婦もてきぱきとやりますよ。三角さんは、どっちかというと日本に帰ってきて、前より元気になった感じでした(笑)

三角佐一郎氏と
左から 、O.P.Rayさん(鹿子木さん友人)、鹿子木さん、三角さん、マハパトラ医師

--三角さんと鹿子木さんのちょっと変わったエピソードなど、ありますか?

三角さんはめったに声を荒げたりすることはないんですよ おとなしくて冷静で・・・ 僕も、ちょっと対立することがあってね、こっちが机をドンドンと叩いたことがあるんですよ、予算のことでね、でも絶対怒らなかった。

--それでは、ここから鹿子木さんのプロフィールをおうかがいします。1936年に大阪でお生まれになりました。

終戦が1945年で、その2年後、父親がなくなりました。母親が一人で、残された5人の子供(私と弟と妹3人)を育ててくれたんで、僕は11歳ぐらいで新聞配達をしながら学校に通いました。高校に入ってからも牛乳屋に住み込んでそこから学校に通ってました。

--神奈川県立湘南高校から中央大学に進まれて、通訳養成所にいらっしゃったんですね。

大学卒業前に神奈川県の中級職試験合格しまして、大学は夜間でしたから、大学に行きながら平塚市中地方事務所で仕事をやってたんです。卒業時に、その頃日通に勤務してた叔父から、「今度日通が『日通合同トラック』というのを立ち上げるので本社採用で来ないか」と誘いがありましてね、中地方事務所はおじいさんと年配のご婦人がいるようなところで「一生ここでいいのかな?」という思いもあって、「日通合同トラック」に入社し、早朝から夜遅くトラックの最終便が出るまで夢中で働きました。そのトラック会社に7年間勤めました。もともとは新聞記者か外交官になろうと思っていて・・・でも、大学を卒業した時は入社試験も受けられない厳しい就職事情で、ちょうど安保騒動で学生運動もあって、こちらもそういう活動をしてたから・・・同じ大学の樺美智子さんが亡くなったりして・・・そんな時代だったし、そういう事情はあったけど、でも語学が好きで国際的な仕事がもう少しやりたかった。一度は断念した野望が首をもたげ始めました。 それでトラック会社やめて、また牛乳屋に住み込んで通訳養成所にいったんです。そこを卒業したあと、「使ってくれるところはないかな」と思いながら、ジャパンタイムス(英字新聞)の募集広告なら語学を活かせるところがあると思って、その求人欄を読んでいて、たまたま日印協会の求人広告を見つけたのです。

--それが日印協会との出会いでした?

そう、その時のインタビュアーが三角さんだったの。それが因縁か偶然か、三角さんは鹿子木という名前を知っていたんですよ。 というのは、僕のおじいさんは北朝鮮で大阪商船の支店長やってて、その弟が学者で、戦争を煽るような活動をしたということで東京軍事裁判でA級戦犯として一時巣鴨の刑務所に入っていた、しかし結審する前に鎌倉の自宅で亡くなった。最初クリスチャンで、アメリカ行ってボストンミュージアムのキュレーターみたいなことやったり、ドイツに行ったりしてた、その頃日独同盟があったでしょ。奥さんはポーランド人で、結婚して日本に連れてきた。慶応や九大の教授になって、その後、国粋主義の傾向が強くなっていった。そんなことで段々右翼化していったんじゃないかな・・・ 慶応のスキー部を創設したり、山岳部で『ヒマラヤ紀行』という本を出したりしていた。その頃チャンドラ・ボースが日本とタイアップして独立しようとしていて、叔父は英領インドに行ったときスパイ容疑で捕まっちゃった。 僕も後で知ったんだけど、その叔父が戦前・戦中、日印協会の理事をやってたんです。三角さんは鹿子木というのはその鹿子木ではないかと思っていたんですよ。

--偶然ですね

偶然なんですよ

--日印協会ではどんなお仕事をされていたのですか?

採用の理由ってのが、日印協会は財政的に厳しくて、それで僕が採用されたんだと思う。旅行の企画して資金を作ろうということだった、今はいろいろ規制があってできないけど、当時は自由旅行の企画ができたんですよ。インドに日本人を大勢連れて行って、それで財政を潤わせようという計画だった、そんなことができた時代だったんです。協会では会報出してたんだけども、お金がないから、写真撮って記事も書いて全部一人でやってました。

--インド旅行の企画はどんなものでしたか?

当時の副会長の高岡大輔(元衆議院議員)先生が、新潟出身で、やはり新潟出身の稲葉文部大臣の後援を取り付けて、協会旅行が文部省の後援になったから、全国の小中学校の先生たちを集めなきゃってことになって、180人も集まっちゃったわけ。僕は「入ったばかりだけどお前もいけ」と言われて高岡さんの秘書役で同行することになった。インディラ・ガンディ首相の時代で、官邸の庭にテントが張ってあって、その180人がそこに呼ばれたんだけど、そこで高岡さんが首相に180人と一人ひとりに握手をお願いしたいと言い出した。でも首相から「代表と握手すればいいじゃないか、手が痛くなる」と断られたの、それでも「日本に帰ってからインドのことをみな、先生から学生にちゃんとPRするから」と押し問答になった。結局首相が一人ひとり握手してくれた・・・。そんなツアーをやっていて結構続いたんですよ。三角さんは旅行の企画を自由にやらせてくれて、例えば、カシミール大学に頼んでカシミールの歴史とかインドの歴史を講義してもらったのよ、ところが、みんなのお目当てはパハールでポニーライディングとかマス釣りだった。でもこちらは、みんな教員だから何かふさわしいものを考えなきゃと思ったんだけど、みんな講義に出席したのは良いのだが、昼間の疲れが出て、眠くなり、グーグー・・・申し訳なかった(笑)企画した方は小さくなって(笑) 英語でセミナーだから・・・こりゃ大変だっていうんでみんな眠くなるでしょ、で、講師の先生が偉くなればなるほど難しい言葉、哲学用語使ったり神様の名前とかたくさん出てくるんだよね(笑)これで眠気を誘うのは当然。(笑)

--その旅行企画で日印協会は潤いましたか?

最初は潤ったんだけど、だんだん旅行業法による規制が厳しくなったり、大臣が辞めて、文部省後援がとれなくなったり、高岡さんも亡くなって・・・でも10回位は続きましたね。三角さんは、自由にやらせてくれて、それは本当に助かった。要所要所でお金は渋いところがあったけども(笑)、自らの発想で自由にやらせてくれたんですよ。

90年代初頭まで・・・日印ビジネスはうまくいかなかったんだよね。日本の戦後の発展の原動力だった石炭とか鉄鉱石だとか、インド公社の役人を接待してなんとか出来る程度の時代だった。1990年あたりから国際化、自由化に向かって動き始めた。ネルー王朝のインディラガンディ、その息子のラジブ・ガンディも暗殺されたでしょ、インド独立のあとソ連とつながりが深かったけど、ベルリンの壁が崩壊(1989年11月)して、そのあとインドは経済自由化になってアメリカとの経済交流が進んだ。それから日本もインドとビジネスをやるようになった。それまでは自由なビジネスはできていなかった。最初のころはインド進出企業が100社あったのが1000社を超えて、今後は2000社に達するだろうと言ってる。

--高岡さんは、どんな方でしたか?

当時の副会長の高岡さんは、東京外語大でヒンディー語(当時はヒンドウスターニー語の名称)習ってて、ヒンディー語のできる国会議員というのは彼しかいなかったんだけれども、インド独立の前には彼はカルカッタの商品館で職員として働いていました。 日印協会は、渋沢栄一、大隈重信、長岡護美らが共に設立したでしょ、渋沢氏が出身母体の商工省から現在の価値で何億ももらってたんです。カルカッタには日本商品館があって、その頃、国民会議派の総裁になっていたチャンドラ・ボースがカルカッタの市長やってた。ちょうどその時、高岡さんがそこに勤めていたんです。高岡さんは独立運動を支えるということで、チャンドラ・ボースの演説聴きに、あるときは仕事を差し置いて演説会場に行ったりしてたみたい(笑)

--イギリスからの独立運動ですね?

独立運動たけなわの頃は、ヨーロッパから買った衣装を燃やしたんです、ボーンファイヤーと言ってましたが、イギリスで作られたものを燃やしたんです。サリーとか着るものは、インドの国産の綿のものを着て過ごそう・・・そういう気分だった。僕はそういうものにも興味を持ったりして・・・。 外国のものは着ないという運動があって、独立運動が進んだ段階ではマハトマガンジー、インドのオヘソ(中心部)と呼ばれていたナグプールの近くでワルダーというところにアシュラム(修養道場)をつくって運動、独立運動の指導をしていました 日本の藤井日達上人(フジイ・グル・ジーと呼ばれていた)は、「南無妙法蓮華経」を唱え、インド独立を支援していたんです。ガンジーを精神的に支援すると太鼓叩いて・・・ガンジーも太鼓叩いたという話もあるんですよ。彼は独立までそこにいて、ガンジーが亡くなったあとも、そこを根拠地にサルボダヤ運動でガンディの精神を受け継いで、チャルカをまわすとか、シンプルな生活を送っていたようです。サルボダヤは今も細々と続いているんですよ。

--鹿子木さんの思い出に残るエピソードはありますか?

40年くらい前、インドに舞踊団を連れて行ったときボンベイ(今のムンバイ)空港で銃撃戦がおこったんですよ、警察官のストライキに軍が介入したんです。空港の中で「危ない!」ってことで・・・大変なことになったの。 次の日が舞踊の公演で、チケットは売ってあるし・・・ボンベイの印日協会に電話し て相談したら、あっちは槍が降ってもやるというので、総領事館に電話したら一 等書記官が総領事館の車で迎えに来たんだけども、乗ってしばらく行くとビルの 屋上から石が飛んできて、その車の窓ガラスが割れたの。でも総領事館の車って いい車だから、ガラスが大きく割れなくて、石が粒になって割れて、助かった。 だけど一緒に載っていた女の子の足のところに当たってた。でも止まってたらや られちゃうから危ないってんで、そのまんま突っ切って総領事館へ行ったの。そ したら、洋服を着替えたら、僕の首とシャツのこの辺のところにもガラスがいっ ぱい入ってた(笑) また自動車に乗っていくとやられるんで、オートリキシャーに乗って行ったの。 するとやんないんですよ、外国人が乗ってるってわかんないから。(笑) とにかく、現地まで行かなきゃならないから、相談すると、事務局長が「暴徒は 3-4時には眠くなって寝てるからその時出ればいい」と言うので、暴徒が寝込 んだ明け方3時頃に街中からオートリキシャーに乗って空港近くのホテルまで行 ったの。 なにしろ、昔の武士みたいな、団長は「何が何でもやる!」っていって・・・だけど 非常事態宣言が出されている最中で、協会事務局の人を含め、観客が数人しかい なくて、やってもどうしようもない(笑) だけど、ちゃんと舞踊やって帰った の。 だけど、その時の総領事には「こんなもの連れてきて」なんて言われた。民間の 舞踊団だったからね、宝塚なんかじゃなくてね。総領事が昼食会のとき「こんな レベルで」「よく国際交流基金がお金出した」ってね。でも、事務局の人くらいし か見てないから(笑)。だって、そんな時だからお客さんは誰も来てなかったでし ょ。

それから、土生(はぶ)さん(現在、日本で最高の三味線の演奏家)がインドに初めて演 奏会で行ったとき、ホットパンツをはいて来ましてね、土生さんはインドでは女性が足を見せないことを知らなかったんですね。でも、実はこのときは、非常に感動することがありました。

--インドのかたは三味線に関心があるのですか?

バンガロールで、土生さんの演奏会が終わったとき、日本人の年寄りのおばあさ んが私のところに来て、「もう長い間バンガロールに住んでいますが、その間日本 の曲を聴いていなかった。だから今日は感動しました」と、涙を流しながら言わ れました。そのときは、「土生さんをインドに連れてきて良かった」と、心から思 いました。

土生みさおさんのブログはこちら(http://habumisao.wix.com/home)

--桜の植樹もされたんですね?

桜も何回かやったけど、あとのケアが難しいみたいですね。全くの陸地で、水やらないと枯れちゃうから。やりすぎてもだめだし・・・バンガロールのホテルにも植えてもらったけど、全部だめだったね

リシュケシュに100本位持っていったけど、警察署長とかホテルのオーナーとかきて、「少し分けて」と言って・・・20本くらいしか残らなかったこともあった。(笑)だけど、後で行ったとき、ガンガ・キナーレというホテルに何本か植わってたけ ど・・・まだあるかな・・・。



つづく



(インタビュワー:西尾留美子)

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