インドに魅せられた人 Vol.1
鹿子木謙吉(かのこぎ・けんきち)さん (後編)


鹿子木謙吉さん

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インタビュー(続き)

--鹿子木さんにとってのインドの魅力はなんですか?

「多文化」ということでしょう。インドへは50回のうち29回は染織関係で行ってるんです。なんで何回も行ったかというと、所変われば品変わるで、州ごとに全部違う、それが面白くて何度も足を運ぶようになりました。インドは、ヨーロッパに似てるんですよ。オランダとかポーランドとか、小さい国でも一つ一つ文化や言語がちがうでしょ、それと同じで、インドも一つひとつの州で文化や言語がちがうんですよ、ヨーロッパに行くよりインドに行ったほうが面白い。多文化に触れるわけですよね。例えば、インパールとかアッサムでは納豆を食べるんですから。前に納豆博士の伊東さんに話をしてもらったけど、日本とは食べ方が違う・・・インパールの町でご馳走になったカレーなんかドロドロして気持ち悪いなと思ったら、納豆が入ってて・・・なんか気持ち悪かったな(笑)それにヨーロッパと違う点は宗教、仏教はヒンドウー教から派生したという点、その仏教が中国、朝鮮を経て日本に渡来した。こういうご縁もありますよね。

--鹿子木さんといえば染織と言われますが、なぜ染織に惹かれたのですか?

指導してくださった先生が良かったんですよ。山辺知行先生っていうんですけど。京都大学を出て、戦時中は軍隊に召集されて砲兵隊の中隊長になって、でも大砲の音で耳を悪くして帰って来られた。その前はボストン美術館のキュレーターをしたり、東京都博物館の染織室長をされて最後は多摩美術大学の教授になった。当時日印協会では専門分野別に、インドのそれぞれの分野のトップの先生に理事をお願いしていたんです。山辺先生にも理事をお願いしました。

僕は山辺先生とインドに行くようになって、先生は英語もできるし、視野が広い、世界の衣文化を見て来られた。先生に感動してついて行ってる間に、インドの魅力にとりつかれちゃったの。「鹿子木くん 次はどこに行こうか?」なんて言われると、「ここがあります」なんて言いながら、ぐるぐる・・・インドを一周しているあいだに僕の『染織α』への寄稿文(12回)ができちゃったというわけ。日印協会を辞めてからも、自分のライフワークでまとめたいという思いがあるので行ってるんですよ。最近は、近代化が進み、伝統的な染織の工房がなくなっちゃったところもあるし、また新たに出てきたところもあるんで、いろいろ変わってきているから、行かなきゃならないんだけれども・・・。

--染織を通してご自分が「変わったな」というところはありますか?

そうね、やっぱり、インドの寛容性というか、インドでは勝手に自己主張してると国がまとまらないじゃないですか、みんなが「おらが国」ではだめで、一つにまとまるためには寛容じゃないとだめなんですよね・・・そういうところは勉強になりますよね、すごく。

--インドの方々は自分をきちんと持ちながら相手のことを認めつつ、自分の主張もしていくという感じなんですか?

そうですね、そうじゃないと、自分を主張しないと生きていかれないから(笑)

--日本とインドの間の文化・習慣はあまりに違いすぎて、インドの中でもそれぞれに違うので日本と単純には、比べられないですね

そうですね、だから、インドは大半はヒンドウーで繋がってるんですよ。ヒンドウー教が80%位はいますし、イスラムは。キリスト教が2-3%と言っても3000万人位いるんですよ、キリスト教徒は日本の役4分の一位いる。僕が思うに、文化的には、「インドは日本の母、中国は父、朝鮮は兄貴」なんですよ。というのは、仏教はインドから日本に来てるけど、文化も、中国・朝鮮を通ってきてるでしょ 例えば、島根の出雲大社なんか行っても、隣接する島根県立古代出雲歴史博物館の展示品と韓国ソウルの国立博物館にある展示品とすごく似てるところがあるんですよ。「くにびきの伝説」なんかも、向こうから文化を持ってくるというのがあったんじゃないかな。社(やしろ)もそうだし 銅鐸なんかも比較してみるとわかるけど。朝鮮半島でいろいろ争いがあって、負けたほうの貴族とか陶工とか織物師なんかが、日本に逃げて来てるんじゃないかなと思う。類似性から言っても、朝鮮から来てるんじゃないかな。染色は、インドからインドネシア通って沖縄からはるばる来てるというように感じられるところがある。

タイは仏教ですが、以前はヒンドウーの王様がいたでしょう。インドネシアもヒンドウーの王様がいた。ラオス、カンボジアなんかもヒンドウー文化の影響がありますよね。

染織地で、アンドラプラデッシュ州のベンガル湾沿いにマチリパトナムという港があるんだけど今でも染織作業が続いてる。そこには、木版(更紗の捺染で使う)があるんだけど、それもインドネシアを通って沖縄にきているんじゃないかと思われるふしがあります。

ヒンドウー教といっても、大昔(B.C.1,500年前後)西方方からアーリア人が独自の宗教(バラモン教)持ってを来たんですよ。例えば、神様のインドラとかを信仰していた。それ以前は、土着の宗教が強いんだよね、今ではシバ派とかビシュヌ派とか言ってるけど、昔はもっと自然崇拝の神様だったと思う。それもヒンドウー教の中に組み込まれて一緒になってる。南の方に行くとへび(ナーガ)が道祖神みたいな感じで信仰されている。でも、それも今はヒンドウーの神の乗り物とか、そういうものに組み込まれちゃっている。もう少し、詳しく言うと、蛇のナーガとか、ヒンドウーの神様の守護神のようになって、神話の絵の中に一緒にあるじゃないですか。

--ヒンドゥー教といっても宗教だけじゃなくて生活習慣とか、文化とか作ってますよね。

そう、大昔は太陽神も信仰しているんですよ、例えば、コナラクというところに行くと、太陽神殿というのがあります。ベンガル湾沿いの、コルカタから夜行列車に乗ると明け方着くんですけど、そこは別にジャガンナート寺院というのがあるんですけど、そこには、オリッサ州の3つの神様が祀られていて、ヒンドウーの神様として、黄色と白と黒の顔をした三神がいるんですよ。黄色が女の神様で、白が兄貴で、黒がクリシュナ(主神)なんです。ということは、結局、黄色っていうのは東アジアモンゴル系の神様、(おそらくそれが本家だったと思うんだけど、)クリシュナは今は主神になって、ブルーか黒になってる、白はアーリア、西の方からきて、3つが一緒になって祀られているんです。

そこの祭りは、近在から50万人とかの人が集まってくるんですが、祭りの仕方が、京都の祇園祭りの鉾と似ていて3台の山車が出るんですよ。オリッサでは、山車の車の直径が3mくらいで、太陽神殿は8頭だての馬車に見立てて作られている。3つの神様がいるっていうこともあるし、言語的にいっても、オリッサ州の言語、オーリア語は文法がヒンディ語に近いのですが、字体は丸い南インド式なんです。その昔ヒンドウーのアショカ王が仏教に改宗した後、インドから今のアフガニスタンまで版図を拡大して、征服地に王柱を建てたんです、そこに自分が大王である、人民はこういうことは守んなきゃいけないと書いた。それをアショカ・ピラーといいうの。今でもアショカ王柱はインドのお札のデザインに組み込まれている。

もう少し詳しく言うと、紀元前3世紀にアショカ王(B.C.273-232)は、ガンジス中流域からオリッサまで攻めて、地元のものすごい抵抗にあって過酷な戦争になって、お互いに相当な被害が出たんです。その反省からアショカ王は仏教に改宗し、各地に王柱を建てた。王柱には、こういうことしちゃいけない、ああいうことしちゃいけないとか書いて、遠くはアフガンあたりまで版図を拡大した。いろんなところに建たんですよ。デリーにもたってる。オリッサっていうのはそういうところなんですよね。文化人類学的に非常に興味がある所です。

グジャラート州にも太陽神殿があるんですよ、すごく古いんです。大昔は太陽崇拝はもっとあちこちにあったと思う。3つの神様に仕立てたのは、お互いに白いのも黒いのも、黄色いのも、寛容の精神で3つの民族が融和して仲良くならなきゃいけないんで、おそらくそういう経緯できたと思う。

--何十回も行かれる間に発見があるんですね、融合とか寛容とかが実感としてあるんですよね。文献から引いてきたわけじゃなくて。

でも、アショカ王のことは王柱として歴史に残ってる。インドは歴史書がほとんど無いのですが、最古のものは『マハーバーラタ』とか『ラーマーヤナ』として叙事詩になって残ってるんですよ、それはいろんなものがごっちゃになって、時代もどの世紀からどの世紀までかわからないくらいなんだけど、その中にも解き明かす鍵があると思うけどね。日本の古事記とか日本書紀とか・・・。インドの場合は、独立して100年経っていない、独立したときにはまだ大小500位の王様がいた、藩王(ラージャー)だったんだよね。日本でも、日本も明治維新前は各地に藩主がいたでしょ。一般の人々にとっては、インドに500位の「おらが国さ」があったわけ。

--そろそろインタビューも終わりに近づきました。DICでは文化交流を始めたばかりだと思うんですけど、これからDICでやっていきたいことやDICにこうなって欲しいという希望はありますか?

インド大使館がDICに期待することもあるけど、DICは独立の団体なので経済的にも自立して行かないと良い仕事ができないという面もあり、むつかしい面もある。

でも、独立の団体といっても、ビジネスの方まで拡大してしまうと、お金のことがウエイトを占めてくるので難しいと思うんですよね。内容的には文化のことで、広げても、教育、科学、医療のことくらいまでかな。お金が絡んでくるけど、そっちが目的じゃない。金儲けに走らないことがポイントだと思います。でも、活動のためにある程度支払い出来る体制にしとかないとね。

インタビューはここで終わり、これより、月刊『染織α』(京都市下京区 染織と生活社刊)「インド・服飾の旅30年」に12回(2002年9月~2004年7月号の隔月)掲載された鹿子木さんの文章から、エピソードや感慨深い思い出など記します。

―初めてのインド―

初めてのインド旅行では、「毎日が驚きの連続」で、「冒頭から大失敗」、しかし「これが後に30年もインドとお付き合いをするきっかけになったのだから『人間万事塞翁が馬』なのだろう。」と振り返る鹿子木さん。大失敗とは、初めてのカルカッタで、夕刻カリ寺院の観光があり、そこで写真を撮りまくっている間に、案内していた一行はバスで出発していたというもの。あたりは暗くなり、覚えていたホテルの名前を「グランド!グランド!」と連呼していると、座席をバンバンと叩き「これに乗れ」と屈強そうな車夫が現れ、そのリキシャに乗った。大通りを避けて急ぐリキシャの中で「どこかに連れ去られてバッサリやられるのでは?」「こうなった自分が悪いのだ」と、自責の念で一杯になっていると、「バイサーブ(旦那)、グランド!」とリキシャの車夫が叫んだ。胸をなでおろしてホテルに入ると、「団長の補佐役が夜遅くまで何処をうろついていたのだ!」と、その夜は団長の高岡先生から大目玉を食らったそうです。

旅の先々で見るインドの民族衣装、カラフルなサリーの数々、頭の飾り、パンジャビ・ドレス、男性も白いクルタにパンタロン風のズボン、頭に色とりどりのターバンなどを目にした鹿子木さん、「これは大変な国にやってきたものだ」とカルチャーショックで頭の中は混乱したとのこと。アジャンタ・エローラの石窟寺院やカイラーサナータ寺院では「インド文化の水準の高さ、スケールの大きさに圧倒され、肝を潰して帰ってきた」そうです。

―日印協会主催の染織ツアー24回―

「それから30年、インドは1991年以来、社会主義政策から経済自由化、国際化へと国の政策を変えた。染織の分野、ファッションの分野でも工業化、機械化、国際化の波が押し寄せ、それがインドの情報化、IT産業の発達とともに、変革の最中にあると言ってよい」

「キャリコ博物館に収蔵・展示されているインド伝統染織作品の質の高さ、多様さは、素人の私が一目見ただけで、その素晴らしさに圧倒され、一時声も出ないほどであった」

「私のインド染織についての関心は高まるばかり」

<参考>

―「九死に一生」のあとは、猛暑のデリーへ―

「昨年(2001年)心臓疾患で入院、冠動脈拡張措置をしていただき、」主治医に「このままストレスの多い仕事を続けては先が長くありませんよ」と脅かされたのが65歳の時、日印協会の常務理事の仕事を辞めて療養していたが、主治医からインド行きを許されると「直ちに気温45度、猛暑のデリーへ飛んだ」そうです。

―インド最大の、キャリコ染織博物館―

通算40回目のインドの旅は、「ヴァルマ博士との6日間のヒマチヤル・プラデッシュ州小旅行」と、山辺知行先生からの手紙に「キャリコ染織博物館の館長、ギラ・サラバイさんの安否が気がかり」とあり、ギラ・サラバイ女史のお見舞いが目的だったとのこと。印パの緊張の高まりを大変心配されていたそうで、博物館も当分の間閉めておかれたようでした。※ヴァルマ博士は、当時ネルー大学日本語学部長、インドで日本語スピーチ・コンテストの審査委員長も勤められた日本通。永くデリー印日協会会長を務められた方である。(故人)

―聖地ベナレスのガンジス川―

「ベナレスの朝は、敬虔なヒンドウ―教徒たちがガート(階段状の岸辺)に出てガンジス川面に沸き立つ霧の彼方から昇る朝日に向かってお祈りし、一気に体を水中に沈めて身を清める沐浴で始まります。私たちがガートに佇むとき、観光客を乗せて小舟を出していく船頭さんの櫓をこぐ音、バラモン僧の読経の声、寺で打ち鳴らす鐘の音、鳥や犬や牛の鳴き声などが入り混じり、爽やかな中にも何か別世界に来たような、異様な興奮に包まれます」

「高く積まれた薪の上に安置された遺体の下から徐々に煙が上がり、やがて赤い炎に包まれていく光景を目の当たりにするとき、これから始まる人の世の営みの朝であっても、無常と寂寥感を覚えます。」

―ベナレス錦織とジャムダニ織―

※ベナレスはワーラーナシー(英語読み)のこと、バナーラスとも発音する

インド染織指導所は、「中央政府繊維省の管轄で、インドの主要な染織の産地24箇所にある。一流の染織家やデザイナーを抱えていて、技術指導を行ったり、商品開発のための展示会を行っている」。「ヒンドウ教の聖地であるベナレスだが、染織の担い手はイスラム教徒が多い」。案内された家では子どもがその技術を父親から学んでいて、父親の「5代位前の先祖がアラビアからやってきて、ベナレスで織物の仕事を始め、今では織りの工房と店を持ち、息子も彼の後を継ぐという」。

―イェオラのパイタニ織―

<参考>

「幻のパイタニ織」が「今も続けられているか」気になっていた鹿子木さんだが、イェオラでパイタニが織られているというので、市内観光もそっちのけで現地に向かった様子が嬉しそうに書かれています。イェオラはナシック市(マハラシュトラ州)に近く、パイタン村とはだいぶ離れている。

月刊『染織情報α』「インドと藍染探訪記」(2010年11月号、2011年1月3月の3回連載 京都市下京区 染織と生活社刊)

その他、鹿子木さんは、月刊『染織情報α』にも、「インドと藍染探訪記」として、南インドの藍作りの里を訪れた記事を掲載されています。鹿子木さんの染織への思いが「藍を求めて南インド行を決断」という言葉によく現れています。コンガルパット村や西インドのカッチ地方などを訪問された時のエピソードも、偶然の出会いも熱く語られています。

  • 「踏み切りの遮断機が導いた藍産地」
  • 「いよいよ藍作りの村へ」
  • 「藍塊の製造プロセス」
  • 「カッチの藍染め視察へ」
  • 「タミル・ナド州の藍染め工房」など

鹿子木さんの論文発見!

ci.nii論文検索サイトで見つけました。

インタビューの後、インドの地図を描きながら鹿子木さんが訪問された染織関係の場所や歴史、その地方の特色やご自分の経験など熱く語られました。図のみ掲載させていただきます。

地図のスケッチ




インドに魅せられた人 鹿子木謙吉さんでした。インタビューでお会いしたときは、最初は少し恐い感じだったのですが、それはこちらの勝手な感じ方でした。鹿子木さんは、優しく、非常に謙虚な、そして真っ直ぐな方だと感じました。インタビューさせていただき、更にいろいろ興味づけられました。ありがとうございました。また、金子(副会長)さんには、インタビューに同席していただきありがとうございました。

(インタビュワー:西尾留美子)



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